←前のページへ次のページへ→
いつの時代も京急のライバルは東海道線

社会交通工学科1年  東山 洋平

はじめに

 京急こと京浜急行電鉄は首都圏の中で高速な運転をする会社で有名であり、最も速い「快特」を中心にダイヤが組まれている。路線の品川から横浜まではJRの東海道線と競合し、カーブが緩く線形がきれいなことから、高速運転で有利な東海道線に対抗するため、京急は数ある急カーブをすり抜け高加速・高減速を繰り返す運転をしている。また、東海道線と京浜東北線の複々線とは違い、京急は各駅停車と駅を通過する電車が同じ線路を通っているため各駅停車の待避が多くあり、ダイヤを極限にまで考慮されて速達ダイヤを生み出している。また、首都圏の鉄道ではあまり見られない、進行方向の前または後ろを見て座るクロスシートを採用した車両が多く、車内サービスをよくすることで利用者を取り込もうとしている。このように競合相手である東海道線を意識した運行は最近始まったことではなく、明治の時代から行われていたのであり、当時の出来事をこれから紹介してゆきたい。



大師電気鉄道開業

今から110年ほど前の1899年(明治32年)1月21日、大師電気鉄道が現在の京急川崎近くの多摩川沿い「六郷橋」から「川崎大師」までの2キロ(図1)を5両で開業したのが京急の前身である。モーターつきの電動車3両(写真1)と、モーターなしの2両で、京都、名古屋に続き東京で初の電気で動く乗り物であった。現在の120キロ運転をする電車とは違い、線路は道路上に敷設されて路面電車として運行されていた。運行時間は、平日は朝の9時から夕方の6時まで、祝祭日は朝の8時から夜の8時までで5分間隔という当時から高頻度な運転を行っていたのは意外である。




図1 大師電気鉄道路線図




写真1 開業時の二軸電車



京浜電鉄事業拡大

 開業4ヶ月で一日平均1200人の利用があり、順調な経営の大師電気鉄道は京浜電鉄と名前を変えて路線拡大を図った。1901年に大森(現在は廃止)〜八幡(現・大森海岸)〜六郷橋開通から始まり、1905年には品川(現・北品川)〜神奈川の21キロが線路で繋がり、現在の神奈川以北の京急路線網(図2)がほぼ出来上がった。このあいだ1903年には、内務大臣あてに当時としては無謀ともいえる最高速度80キロの許可願を提出して、当然認められず従来どおり時速13キロ運転となったのだが、当時から今のような高速運転を目指す意気込みがうかがえる。車両面では、開業当初から走っていた台車1台だけで支える二軸電車ではなく、台車2台で車両の両端を支える(図3)、現在の電車で標準的であるボギー電車が日本でいち早く採用された。(写真2)




図2 京浜電鉄路線開通順




図3 二軸電車とボギー電車の比較




写真2 日本初のボギー電車 京浜1号型



品川・神奈川間全通

 品川・神奈川間が全通した京浜電鉄は、品川初発午前5時、終発23時30分、神奈川初発5時20分、終発23時20分と朝早くから夜遅くまで営業し、全線50分の行程を5分間隔の頻発運転と、運賃を全線18銭と安くして利用客の増加を図った。競合する官鉄こと鉄道作業局(後の国鉄、現JR)は、当時はまだ汽車の運行であったが新橋・横浜間の普通59分、急行36分に、新たに最急行27分をつくり、最急行4本に、急行6本を設定してスピードアップを宣伝した。京浜電鉄の通っていない新橋・品川間は東京電車鉄道(後の市電)を利用することになるのでさらに時間がかかり、官鉄は所要時間ではかなり有利であった。頻発運転と安い京浜電鉄、乗り換えが無くて速い官鉄といったところである。ここから現在の京急と東海道線のライバル関係が続いていくことになる。



官鉄の利用客減少

 鉄道作業局の「京浜間電車全通により新橋・横浜間に及ぼしたる影響」という調査報告では京浜電鉄開通前後で新橋・神奈川間の旅客数が63%減少、品川・横浜間の55%減少と記され、官鉄の利用者の半分が京浜電鉄に流れることになった。京浜電鉄の頻発運転と安さが勝因のようで、前者は大儲け、官鉄にとっては大ピンチである。



官鉄の巻き返し

 官鉄は国の一機関であり、私鉄の京浜電鉄より資産が豊富に持っている点が違う。大正に入った1914年12月、鉄道作業局から鉄道庁を経て名前を変えた鉄道院は、電車には電車で対抗するため京浜間に資金を投じて複々線化し、東京・高島町間の新線を電車線として営業を開始した。集電方法は当時一般的なポールではなく最新鋭の装置であったパンタグラフを用いた。だが、開業初日からパンタグラフが架線に引っ掛かる現象が相次ぎ、開業一週間ほどで電車の運転が休止され、やむなく汽車の運転に戻るはめになった。突貫工事で動床の突き固めが不十分で重い車体がぐらついたことと、パンタグラフにふさわしくない架線の張り方だったことが原因であった。軌道の再整備や架線の張り方を改善して、運転休止から約5ヶ月後の1915年5月に電車の運転を再開した。車両数は50両で京浜電鉄の輸送量に匹敵し、運賃は同じであって、10年前の乗客減少の巻き返しを図った。



京浜電鉄の利用客減少

 今まで運賃と頻発運転で有利であった京浜電鉄はとたんにピンチに陥った。鉄道院の俗称・院電は京浜間を15分間隔、対して京浜電鉄は7分間隔と頻発運転ではまだまだ有利であったが、所要時間は院電が東京・横浜間を45分、対して京浜電鉄が品川・神奈川間(横浜から少し歩いた所)が45分で、加えて東京から品川に出るまでの時間が結構あるので院電が圧倒的に有利である。乗り換えの不便さも無く、運賃も同程度であるのならば客が院電に流れるのは当然である。院鉄の電車線開通前後で京浜電鉄の旅客数が12%減少、運賃収入が20%減少し、経営が傾いていくことになる。10年前の挑戦状が今となって返されてきたようなものであった。



戦争特需で回復

 京浜電鉄もついているもので、院電が巻き返しを図った頃、第一次世界大戦が始まり京浜工業地帯が軍需景気で活発になり工場労働者が増えた。沿線の工業地帯の輸送が盛んになり近距離客が増えて、4年後の1919年には院電の電車線開通前の成績に回復した。院電の巻き返しに運良く持ちこたえたのである。



湘南電鉄と直通運転

 横浜以南の黄金町から浦賀までは、1930年に湘南電鉄という鉄道会社で開業し、関東大震災の影響で建設資金が集まらず援助をした関係で、京浜電鉄の子会社となっていた。1年後、黄金町へのアクセスが不便であったため、野毛山にトンネルを掘って横浜・黄金町間(横浜〜日ノ出町は京浜電鉄、日ノ出町〜黄金町は湘南電鉄)を開通させ、1933年には始点を高輪停留所から現在の品川駅に移すとともに品川・浦賀間の相互直通運転が始まった。これで現在の京急線の路線網が形作られたことになる。



急行運転開始

 湘南鉄道との直通運転が始まる2年前の1931年から京浜電鉄は高輪・蒲田間で急行運転を開始した。停車駅は北品川、青物横丁、立会川、大森海岸、学校裏(現・平和島)のみの停車であったが追い抜き設備が無かったため、先行する車両を抜かすことができず、あまり速いものではなかった。その5年後の1936年には出村(蒲田の南0.6キロにあり、1949年廃止)、生麦、仲木戸の3駅に急行待避駅を設け、急行区間を品川・上大岡間に延長し、品川・横浜間が急行電車で32分ほどとなりスピードアップを図った。これは当時の横須賀線の京浜間20分に比べれば遅いのではあるが、現在の京急の速達運行の原型となった。



ハイキング特急誕生

 戦時中の混乱期は湘南電鉄と合併した京浜電鉄が時の政府によって東急電鉄に合併され、資材や人員不足により急行運転を廃止することになる。終戦後も東急電鉄から分離して現在の「京浜急行電鉄」と社名を改めたが、車両の整備がままならず運行するのがやっとなくらいで、急行運転まで手を回す余裕がなかった。終戦後、5年が経った1950年にようやく急行運転が再開され、休日には「ハイキング特急」(写真3)なるものも開始された。「三笠」「剣崎」「房総」などの列車名がついて、三浦半島めぐりのバスや浦賀から金谷へ行く船に接続し、ハイキング回遊乗車券を持った人のみが乗れる電車で、行楽客向けにつくられた。ハイキング特急ができた当初は品川・浦賀間で94分かかっていたのが最盛期の1958年にはノンストップで48分と半分に短縮され、この所要時間は現在の最速達電車である快特にも勝るスピードであった。




写真3 ハイキング特急にも使われた500形



快速特急の運転開始

 ハイキング特急は後に廃止され、1968年の都営一号線(現・浅草線)開通に先立って「快速特急」が設定され、品川・横浜間が18分と短縮された。京急は速達運転を売りにしているので、地下鉄線直通には各駅停車ではなく特急を中心にダイヤが組まれた。快速特急は地下鉄線内には直通しないが、昼間と夜間に20分間隔で出発し、特急と合わせて高頻度な速達電車の運行となった。1982年には運転台の後ろを除き車両の全てがセミクロスシート(窓に対して横向きの座席)になった2000形(写真4)が快速特急に登場し、車窓が良く見え個人の空間が確保できるなどのメリットがあり、車内サービスを向上させた。現在はセミクロスシートの車両を、床下から音階が鳴り出す俗称・ドレミファインバーターで有名な2100形(写真5)にたすきを渡した。




写真4 セミクロスシートの2000形




写真5 現在運行中の2100形



さいごに

 京急の歴史をさかのぼると、川崎大師への足として生まれた大師電気鉄道であり、関東圏では最初の電車であった。当時はゆっくりと走る路面電車だったのが110年後の現在同じところを時速120キロで電車が通り過ぎてゆき、交通の進化というものは著しい。京急は代々、新しいものを取り入れることを率先して取り入れることが好きで、技術面では蒸気機関が一般的だった鉄道に電気を使い、また電車が世間に普及してからもどの会社も手をつけていなかったボギー電車を採用して、他の鉄道会社の先をいく会社であった。運行面でも高頻発運転で待たずに乗れる運行をし、戦後はハイキング急行をつくり手軽にレジャーに行きやすくして、利用客のサービス向上を図った。近年の京浜間の東海道線との対抗では、高速運転することで所要時間はほぼ同じにして、セミクロスシート車の投入などでサービスを向上させて利便性、快適性を高めて利用を増やすように尽力している。京急沿線に住んでいる人の話を聞くと、鉄道に詳しくなくても京急の車種を知っている人は結構多く、この鉄道に愛着を持っている人が多いと感じる。新しいものを早くから取り入れ、利用客のサービス向上をさらに推進していって、沿線の人々からいつまでも愛される路線であり続けてもらいたい。



参考文献・図の引用

吉村光夫「京浜急行今昔物語」多摩川新聞社 1995年
京浜急行電鉄ホームページ http://www.keikyu.co.jp
 北総レールクラブ http://hokuso.com/shigo/html-shigo-068.html





 
- 15 -
次のページへ→